空想小説、恋愛小説、青春小説、私小説、ショートショート……。きっと好きなジャンルがあるでしょうが、出会ったものを読んでみよう。ゴッタに小説を連載していきます。1回目は平井康二 著『スケジュール』。
「スケジュール」#3 平井康二 著
photo by Shinobu Shimomura
「落ちましたよ、落ちましたよ、あのぉ、落ちましたよ」と女性がスマホを持ってそう言っている。マスターに「淳弥くん、一応、18時でラストオーダーだけど、いい?」と訊かれ
「あっ、はい、もうそろそろ行きます」
と席を立とうとすると髪の長い女性は、手にしたスマホを差し出しこう言う。
「割れてしまったみたいですよ」
スマホの画面には、縦にひびが入っていて、指で触れてみたけれど何も反応しなくなっていた。まずいなぁ、これじゃあスケジュールが確認できないと思う。マスターは髪の長い女性のためのコーヒーを淹れている。しばらくして、また、バタン、と扉が閉まる音がする。さっきと同じ音。
「淳弥、やっぱりいた」という香奈の声。
マスターは、香奈に「こんばんは」と言い、長い髪の女性のテーブルにコーヒーを置く。
「ありがとうございます」とその女性はマスターの顔を見るついでにちらりと香奈の事を見た。ほんの一瞬だったから香奈は気づいていない。
「僕のスケジュールだと、ここは18時までだから、いま帰ろうとしてたんだけど」
と香奈に言う。
「あたしのスケジュールは、今日は更新されなかったの」
と香奈はスマホを見せる。
「じゃあなんで、ここに?」
「なんとなく、淳弥がいるような気がして」
「そう、でも僕は帰るよ。スケジュールを守らなくちゃ」
「あのぉ」と髪の長い女性が香奈に話しかける。
「いまスケジュール、って言いましたよね?私のスケジュールも17時半にここ、って勝手に書かれていて」
「そう」と香奈は少し冷たく言う。
「さっきあなたが入って来た時、私をここに呼んだのはあなたかと思って。でも、違うんですね」とその髪の長い女性も冷たく返す。二人の女の間に微妙な空気が流れる。
「違うわ。淳弥、知り合い?」
と、香奈にじっと見つめられる。
「いや」と答え、とりあえず髪の長い女性には軽く会釈をしてみる。その女性もお辞儀を返す。かきあげた髪からさっき嗅いだ香りがまた漂う。それで、記憶が蘇る。あの人の髪の香りだと。もう一度、その女性の顔を見てみようとするけれども、長い髪が邪魔をしてよく見えない。あなたは、そうだよね、この香りは、そうだよね、と思うけれども、言葉が出てこない。
「マスター曰くね、何人かいるみたいよ、こういうことになってる人が。なんか伝染するんだって、想いを寄せてる人とかに」と香奈が説明する。
「じゃあ、私も誰かから伝染したと?」
「さぁ、知らないけど」
「私、昨日、ボリビアから帰って来たばかりで、スマホを見たらスケジュールにここの名前が入っていて」と髪の長い女性は言う。
「ボリビア?」と香奈は驚き、また僕をじっと見つめる。
「淳弥さん、って言ったわよね、私たちどこかで会っていない?」と髪の長い女性に尋ねられる。ほんとうにわからないのだろうか。忘れてしまったというのか。どう答えたらいいのか戸惑っていると
「そうなの?」と香奈にまた鋭く見つめられる。
「君とは、たぶん、ボリビアで会ったんだ。その長い髪を風になびかせて僕のすぐ前を歩いていた」と答えてしまう。
「何言ってんの?淳弥。いつボリビアに行ったって言うの?頭おかしくなったんじゃない」
「間違いなく、会ったんだ、間違いない」
「ねぇ、大丈夫?淳弥、ちょっとスマホのスケジュール見せて?」
「いいけど、割れてしまって操作できない」
「大丈夫、貸して」
と、香奈はスマホを奪い取る。さっきまで割れていたはずの画面をサクサクと操作している。
「13時、ボリビア サンタクルス」
と、香奈は昨日のスケジュールを読み上げる。
「ほら、だから、昨日ボリビアで」
「昨日は、ここで一緒にご飯食べてたじゃん、あたし達。それで、あたしがボリビアに行きたいって話をしただけで、ねぇ、マスター?」
と香奈はマスターに話をふる。
「えっ、香奈さん、昨日は定休日だから、やってないよ、うちは」
「なんでよ、昨日、来たよ、ご飯食べたよ、淳弥と一緒に」と香奈は泣きそうになっている。その香奈の姿に髪の長い女性は、冷たい視線を送っている。そして、僕は
「だって、君がボリビアに行きたいなんていうからだよ、ボリビアになんて」と冷たく呟く。
「なに?ボリビアって」と、さっきまで流れていた音楽が止まっていて、誰もいない店内にマスターの声が響く。
「あっ、いや、なんでもないです」
「淳弥くん、そろそろ、閉店時間だよ」カップの底に少しだけ残っていたコーヒーを口に含む。苦味だけが舌先に残る。スマホで時間を見る。そしてスケジュールを確認すると、明日の予定が更新されている。17時から18時に、またここだ。続きを見られるのか。
「ごちそうさま」と言って店を出る。
「また、明日」と背後でマスターの声が聞こえた気がした。
ーFinー
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