空想小説、恋愛小説、青春小説、私小説、ショートショート……。きっと好きなジャンルがあるでしょうが、出会ったものを読んでみよう。ゴッタに小説を連載していきます。1回目は平井康二 著『スケジュール』。
「スケジュール」#2 平井康二 著
photo by Shinobu Shimomura
その日の夜は、ケジュールが本当に更新されるのか気になってなかなか寝付けなかったのだけれど、気づかないうちにソファで眠ってしまっていた。毎朝アパートのとなりの公園で、近所の老人たちがラジオ体操を始めるので、いつもその音楽で起こされる。健康的といえばそうなのだろうけれど、朝寝坊をしたい時にはかなり迷惑だと思う。今朝も、元気に老人たちがラジオ体操をはじめて、起こされた。スマホのスケジュールを確認すると、17時から18時に、cafe coyoteと勝手に更新されていた。「いつのまに、またあそこか」と独り言を呟く。香奈のスケジュールも同じようになっているのだろうかと考える。もしそうならば、あえて連絡を取らなくても会えることになる。とりあえず、スケジュール通りに行動してみようと決め、五時にcoyoteに着くように一時間前に家を出た。迷わずにたどり着けるか不安だったけれど、なんとなく道順を覚えていてマップを開かなくても時間通りに着いた。夕方のカフェは、誰もお客さんの姿はなく、ひっそりと息を潜めているようだった。店に入るとマスターは、カウンターの奥に座って本を読んでいて「いらっしゃい」とだけ言ってメニューと水を持ってきた。コーヒーをオーダーして待っていると、カウンターから
「スケジュール通り?」とマスターに訊かれる。
「はい、一応。18時まで、ここで」
「そう」
とだけ言って、マスターはまたコーヒーのドリップに集中した。ここに来る意味がどこかにあるはずだと思って、あまりリラックス出来ない。これから一時間、何をしていればいいのか迷う。スマホをいじっているのもなんとなくセンスがないし、本を開いても集中して読める気がしない。何も話しかけてこないマスターのことも気になる。なんでもいいから話題を振ってくれたら1時間くらいならば世間話をしてやり過ごすことはできそうなのに、コーヒーをテーブルに置いた時に「どうぞ」と言ったきり黙ったままだ。香奈が現れる気配もない。香奈のスケジュールは更新されなかったのだろうが。一人、コーヒーをすする音が店内に響く。さっきまで西陽が差していたすりガラスの窓は、いつのまにか薄い青色の光を発していた。まだ五時を回ったばかりなのに夜の気配がする。ずいぶんと陽が延びたと昨日思ったばかりだったのに。雨でも降ってくるのだろうかと思いスマホで雨雲レーダーをチェックする。しかし、この界隈には雨雲は発生していないようだった。
店内にはこの前、香奈と来た時と同じ音楽が鳴っている。バンドネオンのような音色とチェロ、時々ギターも聞こえる。遠い異国の音楽、どこか知らない国で奏でられている音楽。繰り返し同じフレーズを奏で続ける不思議な曲。誰もいない静かな店内で聴いていると、どこかへ引きずられていってしまいそうで、その危うさが際立つ。音楽が鼓膜を伝って脳の奥まで浸透してくるのがわかる。じんわりと脳の奥に染み込んだ音楽が感覚を痺れさせる。そのチリチリとした痺れのせいで自由が効かず思うように身動きが取れない。少しだけ怖い。誰かに手を引かれている。そして異国の街の砂埃が舞う通りを歩いている。嗅いだことのない香辛料の強い香り、酒場からグラスが触れ合う音、歩道で子供が駄々をこねて泣いている声、犬の遠吠え、風が吹き抜けどこかで扉が大きな音を立てて閉まる音。バタン。そして、再びカフェの椅子に座っている。
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「こんばんは、まだ大丈夫ですか?」とスーツ姿の女性が現れた。服が本人と馴染んでいない。きちんとした服装に慣れていない感じだ。女性は、斜め前の席に背を向けて座った。一つにまとめていた髪を解くと、ほんのりと柔らかい香りが鼻腔をかすめる。前にどこかで嗅いだことのある香りだと思う。時計を見るとカフェに来て30分が経っていた。もしかしたらこの女性が、ここに来ることになった理由と何か関係しているのかもしれないと思うと心臓の鼓動が早くなってきたのがわかる。マスターの視線が気になっているのだけれど、意識するとマスターの方に目を向けることが出来ない。女性の背中にずっと視線を向けているのも何か怪しいと思い、とりあえず眼をつぶる。再び異国の街の通りを歩いている。さっきと同じように誰かに手を引かれて。その前を長い髪の女性が歩いている。髪は風になびいて、顔に届きそうだ。いい香りがする。嗅いだことのある香り。さっきまで繋いでいた手がほどける。すると途端にどこに向かって歩いていけばいいのかわからなくなって不安になり「すいません」と前を歩く女性に声をかける。女性は振り向き、聞いたことのない国の言葉を話し出す。繰り返し同じことを言っている。でも、何を言われているのかがわからずに、じっと女性の目を見つめる。やがてだんだんと言葉がわかってくる。
ー続きますー
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