空想小説、恋愛小説、青春小説、私小説、ショートショート……。きっと好きなジャンルがあるでしょうが、出会ったものを読んでみよう。ゴッタに小説を連載していきます。1回目は平井康二 著『スケジュール』。
「スケジュール」#1 平井康二 著
photo by Shinobu Shimomura
住宅街の路地を何度曲がったかわからない。
こんなところにカフェなんてあるのかと思っていたら「ここだよ」と香奈は言って、小さな平屋の一軒家の前で立ち止まった。確かに看板にカフェと書いてあるけれども、知らなかったら確実に通りすぎてしまう。香奈は慣れた足取りで入り口のドアを開けて中に入っていく。とりあえずそのあとを追う。中は普通の家の玄関のようになっていて何足もの靴が脱いである。そのうちの一つが自分と同じ白のコンバースで、サイズも同じ、汚れ具合というか履き込み具合もほぼ同じくらいだった。持ち主は誰だろうと客席を見まわしてみたけれど、みんな女性でこのコンバースを履いていると思われる人はいなかった。
「ねぇ、何見てるの?」
と香奈に言われて、とっさに
「コンバースが」
とだけ答えて、その次の言葉を選んでいるうちに香奈はカウンターに一番近いテーブルにカバンを置いていた。
「淳弥、ここでいい?」
「うん、いいよ」
女性ばかりの中で、なんとなく場違いな気分でいたら、カウンターの奥に男性の姿を見つけて少しほっとする。同時に、この人のコンバースかぁ、と納得する。店内は、出汁と醤油の和食っぽい匂いがするのだけれど、流れている音楽はどこか知らない異国の匂いがする聞いたことのないものだ。繰り返し同じフレーズを奏でていて、ずっと耳を傾けていてはいけないような感覚になる。他のお客さんは、平然とご飯を食べたり、おしゃべりに夢中になっている。音楽なんて耳に入ってきていないかのようだ。自分だけなんだろうか、この感覚は。この音楽はいったいなんなのだろうか、とぼんやり考えていたら
「何にする?」と香奈に大きな声で訊かれてびくりとする。
「聞こえてる?あたしの声」
「えっ、あぁ、聞いてるよ、香奈は?いつも何?」
「ごはん」
「じゃあ、僕も、それ」
香奈は、店主と思われるカウンターの男性に、ごはんを二つ注文し、身を乗り出してきた。
「ねぇ、話していい?先に」
「どうぞ」
香奈の「先に」という言葉が引っかかった。話があると呼び出したのは香奈の方で、自分からは特に話があるわけではないはずだから。何か香奈に話さなくていけないことがあっただろうかと考えてみるけれども、何も思いつかない。
「あたし、決めたの。会社辞める」
「やっぱり」
「えっ、何、やっぱり、って。そう思ってた?」
「うん、なんとなく」
「あたしとしては一大決心だったんだけど、そっかぁ」
香奈は出鼻をくじかれたようで、少しトーンダウンしてしまった。
「辞めてどうするの?」
「まだ決めてないけど、とりあえず家賃とかあるからバイトしないと」
「少しは貯金とかある?」
「ない」
「全く?」
「ない」
「やばいね」
ごはんが運ばれてきて、二人は黙る。そして、そのまま黙ってごはんを食べ始める。香奈が
「美味しい」と一言呟く。それに呼応して「美味しいね」と呟き返す。
「ボリビアとか行こうかなぁ」と唐突に香奈が言う。
「なに?ボリビアって?」
「なんとなく知らない国、ってこと」
「それがボリビア?」
「淳弥、ボリビアについて何か知ってる?」
「知らない」と、ここで嘘をついてしまう。
「でしょ、あたしも。だから。誰かの歌に出てきたくらいで、全く知らない国。それがボリビアよ」
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なんでよりによってボリビアなんだと思う。
何年か前に付き合っていた人が、海外協力隊とかで、ボリビアに行ってしまった。二年間だけと言っていたけれども、三年経っても帰ってこなかった。同時に連絡も途絶えた。交わしていたメールアドレスがある日突然、使えなくなっていた。そこに香奈が行こうとしている。理由が全くわからない。とにかくその話に減なりする、どういうつもりなんだ、なんでみんなボリビアなんだ、と。お店の人が水を注ぎに来て二人の会話は一旦終わり、香奈は
「マスター、あたし、会社辞めます」
と気安く話しかけたので、少し驚く。
「やっぱり」
「なんで二人とも同じこと言うんですかぁ」
「冗談だよ、カレの真似しただけ」
「カレじゃありません、友達です」
「そうなの?」
「はい、友達の淳弥」と、香奈は友達を強調して言う。
「まぁ、いいけど。こんにちは」と、マスターは声を掛けてきた。
「こんにちは」と応え「ごはん、美味しいです」と一言付け加える。
「男性には少し物足りないかもしれないから、足りなかったら言って。ごはんサービスするから」と、カウンターの中に戻っていった。
「よく来るんだ」
「いや、そうでも。三回目」
「三回目?」
「そう」
「三日連続、って言った方が正確かな」
「なにそれ?よくやるの、そういうの?」
「そういうのって?」
「だから毎日同じ店に通うみたいなこと」
「やらないよ、そんなの」
「じゃあ、なんで?」
「わかんないけど、朝起きるとそういう風になってるの」
「そういう風に?言ってることがわかんない」
「ほら」
と香奈はスマホのスケジュールを見せる。スケジュールの予定に「十三時~十四時半cafe coyote」とある。
「で?」
「朝起きるとね、スケジュールが入ってるの、勝手に。おとといから、毎朝。だから、来てみてるの」
「勝手に、って。なんか乗っ取りとかそういうのとか、バグってたりとかじゃない?修理出したら」
「そうかなぁ、他は全然大丈夫だから。なんか理由があるのかもって思って、ここに来てみてるの。そういうの面白くない?」
「何かのお告げみたいなこと?」
「そう」
「ありえないし、気持ち悪いよ。単なる故障だよ」
「そうかなぁ」
「で、なんかここに来てあったの?昨日とかおとといに」
「ない。ただ、ごはん食べて、マスターとおしゃべりして、それだけ」
「ほら、だから故障だって。会社を辞める話と、それ、なんか関係あるの?」
「いや、ないよ。ちょうど淳弥に会社辞めるって話をしなくちゃって思ってたから。ここにも来るスケジュールになってたし、ちょうどいいかなぁ、って。ちなみに淳弥のスマホ、どうなってる?スケジュール」
「僕の?スケジュールとか使ってないから何も書いてないよ」
「見てみて。どう?」そう香奈に言われ、カバンからスマホを取り出して見てみる。
「あっ、入ってる、スケジュール。なんで?」
「ほら、呼ばれてるんだよ、ここに」
二人してカウンターの中のマスターに視線を向けてみたけれど、奥の方でランチの食器の洗い物をしている背中しか見えなかった。
「訊いてみる?」と香奈。
「何を?」
「だからスケジュールのこと」
「マスターは関係ないんじゃない」
「でも、何か知ってるかもよ」
ごはんのお膳を下げに来たマスターに、香奈は声をかける。
「マスター、ちょっといいですか?」
「なに?」
「あたし、今日で三日連続なんですけど、なんで毎日来てるかっていうと、これなんです」と香奈は、スマホをマスターに見せる。
「これ、朝になると勝手に書かれているんです。この時間にここ、って。マスター、何か知ってます?」マスターはしばらく香奈を見つめてから
「うん、それね」と言った。
「知ってるんですか?」
「知ってるっていうか、そういう人が何人かいるよ、他にも。一年くらい前から」
「ほんとに?なんなんですか、これ?マスターが?」
「まさか、僕はなにもしてないし、理由もわからないよ」
「いつまで続くんですか、これ?今日で三日目ですけど」
「さぁ、人によって違うんじゃない。でもね、それ、なんか伝染するみたいよ。たぶん想いを寄せてる人とかに」
「えっ、」と思わず声を出してしまったけれど、香奈はマスターを見ていて何も反応しなかった。
「例外もあるのかもしれないけどね」とマスターは言ってお膳を持ってカウンターの中に戻っていった。
「だって。淳弥」と香奈は、必要以上に顔を近づけてくる。しばらく視線を合わせたまま時間が過ぎる。
「マスター、コーヒーも下さい」と香奈はカウンターの奥まで聞こえるように声を張ってオーダーをする。
「淳弥も、飲む?」
「うん、飲む」少し大きな声で言ってみる。マスターに届くように。
「お待ちください」とカウンターの奥からマスターの声が帰ってくる。
ー続きますー
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