ワインの恋文vol.6 Dear 是枝裕和

その一本になるまでに、ワインはさまざまな物語を含む。そんなワインに感情をのせてあの人へ届けたい。ワイン スタイリスト・大野明日香さんによる、ワインに込める心の恋文。

ドンペリニョンp3 

30年以上のプレニチュード(熟成)のピークを迎えたもの。

30年以上の時がたっているため、ほとんど泡は残っておらず、

微かにささやかにぷつぷつ、と聞こえる。

熟成感も柔らかく、上品な味わい。


Dear 是枝裕和監督

 

 シャンパンとはいつでも特別な飲み物ですよね。あのキラキラ、しゅわしゅわした飲み物を目の前にして、胸がときめかない人なんているんだろうか。将来ワインの仕事をするなんて夢にも思ってなかった20代。時はバブルの残り香だけを含んでいた時代、シャンパンといえばドンペリニョン。特別で華やかで素敵な場面を象徴するお酒、そんなイメージのお酒を初めて飲んだのがいつどこでだったのか全く思い出せないけれど、美味しいとか、楽しい、とかそんな幸福な時間の記憶が強いのです。

 残念なことに日本ではバブル時代を象徴するお酒のようなイメージが強いドンペリニョンですが、そもそもシャンパーニュの歴史はこのドンペリニョンから始まっています。ドンペリニョンには3つの時があるとされ、それぞれのプレニチュード(熟成)のピークを迎えた時期に出荷されます。そもそもドンペリニョンは最低でも8年熟成されなければ出荷されません。この最初の出荷がp1、12年から15年の熟成を経たものがp2、そして30年以上の熟成を経たもので、3度目にして最後のピークを迎えたものをp3として出荷されます。

 今回その3度目にして最後の時を迎えたドンペリニョンp3が、是枝裕和監督に送りたいワインです。

 大学時代に是枝監督のデビュー作幻の光をみて、勉強するならこの人の下がいい。この人以外に日本人でついてみたい監督なんかいないという生意気盛りな理由で、映像制作会社テレビマンユニオンに就職しました。将来は映画監督になると心に決めていた私は、よっしゃ、あとは経験積んで映画監督になるぞと意気込んだは良かったものの、テレビ番組の制作がメインの事業であり、なかなか映画の現場に近づけずにいることに痺れをきらして早々に辞めてしまうという、今ならビンタしたいほどの若気の至りぶり。そんな理由で辞めたもんだから、それ以降私は何年も是枝監督の映画を観ることができず、そもそも映画自体観なくなるのです。入社したての頃、「映画さえ撮れたら最低限生きていけたらいいぐらいの欲しかない」と言っていた私に、「わかるよ」と言っておすすめの映画作品のリスト表を描いて手紙をくださった是枝監督。だからこそアホで未熟な自分が恥ずかしくてとてもじゃないけど監督の作品も、おすすめの映画も、見ることが苦しかった。

 私がまた再び映画を観ることができるようになったのは、ワインの仕事がきっかけでした。客商売をする上で話題になった映画を全く観ていない のは、なかなかどうしてでもあったし、ワインという世界を知り、仕事になったことで、なぜか急に映画をもう一度観たくなった。映画と向き合えたというか、不思議なんだけど。

 是枝さんは近年さらに有名な監督となり、たくさんの賞もとられているのだけど、私がいまだに是枝さんの作品で強く印象に残っているのは、是枝さんのテレビディレクター時代のドキュメンタリー作品『しかし… 福祉切り捨ての時代に』。私が入社したばかりの頃に参考資料として見せてもらったものだ。

 自殺した方の死にまつわる重い内容の取材シーンに、全く関係ない雨がふりしきる物干し竿が延々と映し出される場面がある。なぜかその湿度が自分の中に積もっていくようにテーマがふりかかってくる。もちろん今の映画としてフィクションの世界を描かれている是枝作品も素晴らしいのだけれど、あの、現実世界の重たさを毒々しさなく、映像美として、誇張も虚飾もなく描けるドキュメンタリー作家としての是枝さんの力量には尊敬を超えて圧倒されたことを覚えています。ほんとにすごい、もはや映画だなと思った。

 是枝作品にはいつの時代の作品にも是枝監督のぶれない精神がひっそり息づいている。ドンペリニョンと同じく、まずシンプルに素晴らしい監督としての作品に加えて、時代であったり、人間性であったり、環境であったりが熟成を加えている。

 以前ワインバーに勤めていた頃にお客様からリクエストがあり、ドンペリニョンの全てのプレニチュードを取り寄せてみたことがありました。最初にも言いましたがそもそも私はドンペリニョンというシャンパンが好きです。ワインの仕事をするようになって、色々と飲んだけれども、改めてやはりドンペリニョンというお酒がとても真っ当でシンプルに美味しいと感じたし、この時に飲んだドンペリニョンp3でそれは確信に変わったのです。

 さすがに30年以上の時がたっているため、ほとんど泡は残っていません。ただ耳を傾けると微かにささやかにぷつぷつ、と聞こえてきます。霧雨みたいに。熟成感も柔らかく、優しく、上品です。まるでしっとりと濡れながら柔らかな土を踏んで森の中を歩くみたいに。ストーリーを感じるワインを飲むと、さながら映画のワンシーンのように風景が思い浮かんでくる。

 是枝さんの最新作であるカトリーヌドヌーヴ主演「真実」もまた、時の流れの物語だ。人間もワインも永遠のものじゃないから美しいし、完璧だ。命が通ってるって変化あってこそ。産まれてから死ぬまでは熟成の過程。

 そう思えば年を取った自分も、若気の至りだった自分も愛せるようになる気すらしてきませんか。良くも悪くも。




こころのあて先 : 是枝裕和

1962年6月6日、東京生まれ。87年に早稲田大学第一文学部文芸学科卒業後、テレビマンユニオンに参加。主にドキュメンタリー番組を演出、14年に独立し、制作者集団「分福」を立ち上げる。95年、初監督した『幻の光』が、第52回ヴェネツィア国際映画祭で金のオゼッラ賞を受賞。以降数々の作品を手がけ、さまざまな映画賞を受賞。主な作品に『ワンダフルライフ』(98)、『誰も知らない』(04)、『奇跡』(11)、『そして父になる』(14)『海街diary』(15)、『海よりもまだ深く』(16)『三度目の殺人』(17)。18年、『万引き家族』が第71回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞。


小脇の一本 : 映画『真実』(2019)

国民的女優のファビエンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)の自伝本「真実」の出版を祝うため、集まった家族。脚本家として活躍する娘のリュミール(ジュリエット・ビノシュ)、ファビエンヌのパートナーと元夫、秘書ら。でも全員の気がかりは「いったい彼女が何を綴ったのか」ということ。そして、自伝は、隠されていた母と娘の間の愛憎渦巻く真実を明らかにしていき…。

構想に8年、主演に女優のカトリーヌ・ドヌーヴを迎え、全編フランスにて撮影された。

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